ナボコフ「ロリータ」〜 英語という第二言語との情事を辿る (序)

<オリンピア・プレスがパリで本書を出版してから、あるアメリカの批評家が「ロリータ」は私とロマンチックな小説との情事の記録であると書いた。この「ロマンチックな小説」というところを「英語という言語」に置き換えれば、このエレガントな式はさらに正確になっただろう。> (Navokov)

作者ナボコフは二十歳でロシア革命のためにドイツに亡命した貴族であり、ロシア語で作品をいくつも記し、地位を築き上げた作家であった。そのナボコフが50代になって、第二言語である英語で書いた小説が「ロリータ」だ。

名作と呼ばれる小説は、魅力的な筋書きと登場人物の造形に留まらず、精神の輪郭を描き出す"言語"そのものの探究にまで、しばしば踏み込む。言葉が小説において扱われるとき、辞書や単語帳のそっけない記述以上のものが含んでいる。名作の言葉は小説の豊かなイメージに支えられ、新たな広がり(語義の転用)と奥行き(示唆の射程の深化)が付与される。拡大したイメージの元、言葉が使用されるにつれ、共通言語の体系に、小説の持つイメージの残滓が組み込まれる。一方で、名作小説は、自らの生み出したイメージの残滓を支える豊穣な大地として、言語文化の中で生き続ける。

小説が言葉に新たなイメージを付与するとはどういうことか?小説は言葉を新たな文脈や物語の中に置く。その言葉自身・周囲の言葉や文化的文脈、創作された物語のプロット・人物造形、それらの張り巡らされた既存のイメージを通して、イメージとの新しい結合を人々に刷り込むことによって、言葉のイメージの豊かさが語に付与される。母語話者が、語義の明瞭な定義に興味を持つことは滅多にない。言葉の意味とは、辞書のイメージに反して、前言後的思考に"ぴたっとはまる"表現を生み出す人がいて、他者がそれを別の場面で使用し、というサイクルを繰り返して、集合的に、ゆるく、合意されていくものであり、良い小説とはまさにそのサイクルの起点を生み出す。

小説と言語の根源的な関係を考えると、第二言語で歴史に残る名作小説を記すことは、いかにも大それた挑戦だ。サイクルの起点になるには、言葉を、文化を、物語のイメージをレバレッジしないといけない。それらを利用して、新しいイメージを人々に刷り込むのだから。言語圏全体に受け入れられるような、言葉のイメージの付与を行うには、言葉が現在もつイメージのネットワークを包括的に我がものとし、システム1のレベルでその新たな結合が可能となるほど、そのネットワークの中に棲み込み(dwell-in)、我が血肉とすることが要求される。それも、30代から、自身の思考体系を形作っているわけではない言語において。

「英語という言語」との情事。この常人には絶壁に思える困難を、難攻不落な魅惑の麗人を落とすかのように、楽しみながら情熱的に取り組むナボコフの軽やかさ。この軽やかな偉業をたどりたい、というのが今回の読書の趣旨だ。

Lolita, light of my life, fire of my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo.Lee.Ta.

Lolitaの書き出しは、明らかに、声に出して読まれたがっている。英語の美しきLとTが踊っている。Lolitaの手をとって、天才ナボコフの英語との情事の記録を辿っていこうじゃないか。